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      八道州・七新都市建設の提言 1
         第一章 八道州・七新都市構想とは(その1)-
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 常識的発想では難局は乗り切れない
 単純な道州制の導入論は危険

常識的発想では難局は乗り切れない
〔この論文は、2002年当時に執筆したものと基本的には同じなので、当時のITバブルが崩壊した経済状況をもとに説明している。しかし、これを読めば、当時の世界的な不況が、現在のアメリカのサブプライムローンの破綻(はたん)をきっかけにしたバブル経済の崩壊後の大不況とよく似ていることに気づかれるだろう。もちろん、当時より現在の状況の方がはるかに深刻であることはまちがいないが〕

 現在、いわゆるITバブルの崩壊は日本からアメリカにおよび、いよいよ世界恐慌(きょうこう)へのカウントダウンが始まったのではないかとさえ思える。もっとも、アメリカの景気の後退はいわば百点満点で120点だったものが80点ないし70点に下がったという正常な範囲での調整ともいえるが、日本の場合は、土地と株のバブルの崩壊で60点程度にまで下がっていた景気が、ITバブルの崩壊でさらに30点・20点に落ち、底無し沼にはまっているという状態になってしまった。しかし、そうした状況の中で小泉内閣は財政再建のみにエネルギーを集中しており、景気に対する危機意識が薄い。このままではいずれ財政も景気も修復不能の状態に陥る恐れがある。日本の国債への信頼がなくなり、暴落したときが世界大恐慌への引き金となるのだろうか。すると小泉首相はかつてアメリカで経済恐慌に対する対策を間違えたフーバー大統領の二の舞になってしまう。しかし、そうなってはいけない。小泉首相にはフーバーではなく、ニューディール政策を実行したルーズベルトになってもらわなければいけないのである……日本のためにも、世界のためにも。そして本論文はそのための指針を記した、いわば「救国の書」ともいえよう。

 私はかつてバブル経済の崩壊を予測していたが、今回のITバブルの崩壊やアメリカの景気後退も、以前から予測していた範囲内のことであった。ただ、大地震は必ず来るという予測はできても、その正確な時期を当てるのは至難のわざであるように、アメリカの景気後退と、それに伴う日本の不況のさらなる悪化も、それが必ず来ることはわかっていても、その時期までは予測できなかった。ただ、私はやや不謹慎(ふきんしん)な言い方をさせてもらえば、それがどうせ来るなら早く来いと待っていたのである。というのも、日本人というのはどん底まで落ちないと大改革はできない。私の本論文で発表する革命的な案も、日本経済がどん底まで落ちてにっちもさっちもいかなくなるまで採用されないだろうという予感があったからである。ただ、気になるのは、先程も述べたように、小泉内閣に日本経済がどん底まで落ちている、あるいは落ちつつあるという認識が希薄なことであるが。

 さて、では筆者の日本を救う革命的な案とは何かということについて述べる前に、現在の日本経済が置かれた現実を冷静に分析してみようと思う。それは次のようなものである。

(1) いわゆるITバブルが崩れて、かつてテレビ・新聞・雑誌などにあふれていたIT革命という言葉はほとんど聞かれなくなった。かつてマルチメディアがブームになったとき、私は「マルチメディアなどというのは幻想にすぎない」と考えていたが、世の中がIT革命ブームに熱狂していたときも、やはり「IT革命など幻想にすぎない」とクールな目で見ていたのである。その後、『IT革命? そんなものはない』などという本が出てまさに我が意を得たりという感じだったが、やがてITバブルが日米で崩壊して、私や、この本の主張の正しさが証明されたといえよう。
 すなわち、いわゆるIT(情報技術)がもはや日本経済の救世主とはなりえないことは現在のIT関連の企業の株価をみてもおわかりであろう。確かに情報産業は二十一世紀における有望な産業の一つではある。しかしそれは「多くの有望な産業」のうちの一つにすぎない。決してそれだけで日本経済が救われるなどということはないのである。したがって、国は情報産業以外の将来性のある産業の育成についても真剣に検討する必要がある。

(2) 現在、国と地方自治体は約七百兆円という途方もない負債をかかえている〔現在は約八百兆円〕。これを返済するためには、とにかく景気を回復させて税収を増やさなければならない。しかし、そのために従来型の公共事業を際限なく投入すれば、借金はさらに増えてしまう。しかし、逆に小泉内閣のように無駄な公共事業を減らして歳出の削減ばかりに熱心になれば、景気はさらに悪くなり、税収が減ってしまうのである。その結果、同じように借金が増えるだけでなく、「日本発世界大恐慌」の最悪のシナリオに一歩一歩近づいてゆくことになる。すなわち、現在の日本経済は財政危機という「前門の虎」、不況という「後門の狼」に挟まれている。仮に巨額の公共事業を投入すれば「前門の虎」の犠牲となり、減らせば「後門の狼」の餌食となる。どちらにしても待っているのは、国と地方の財政の破綻、さらには日本経済の破綻であろう。まさに「進むも地獄、退くも地獄」なのである。

(3)「脱土建国家」ということがいわれる。日本の地方経済はあまりにも土建業の比重が大きすぎるため、公共事業によって需要を作り出そうとする。しかし、現在の公共事業の多くは無駄で経済波及効果(乗数効果)も低く、国と地方の負債を絶望的にまで増やしてしまった。したがって、土建業に(たずさ)わっている人たちの多くは別の業種に転業すべきだというのである。しかし、これは全国の土建業者やその従業員にとって酷なことではないだろうか。確かに、ここまで地方が土建業を肥大させてしまったことには、巨額の公共事業を要求してきた地方の人たちにも責任がある。しかし、同時に、公共事業のばらまきを続けてきた中央の政治家や官僚たちの責任も大きいはずである。それを突然公共事業を大幅に減らすなどといったら、業者にしてみれば二階に上げられたあとハシゴを外されるようなものであろう。IT産業などに人材を移すなどといっても、昨日まで土建作業をしていた中高年の人たちが、コンピューター関連の仕事ができるようになるとは思えない。したがって脱土建国家を実現するためには、国がそれを(うなが)すような具体的な政策を実行しなければならない。

 以上の三点が、現在の日本が直面している、特に経済面での現実である。しかし、この現実というのは、多くの人は考えれば考えるほどその解決の困難さが実感されるのではないだろうか。なにしろ「IT革命は日本経済の救世主とはなりえない」「巨額の公共事業を続ければ国と地方の財政は破綻する」「しかし、公共事業を大幅に減らせば、日本経済、特に地方経済は成り立たない」「現在増え過ぎた土建業者がほかの業種に転換することは、国が特別の政策でも実行しないかぎり無理である」……というのだから、それは答のないパズルを解くことを命じられるようなものである。

 では、これは解決不能な問題であろうか。確かに「常識的発想」にこだわるかぎりそうだろう。しかし、歴史を振り返れば、人類は数々の解決不能と思われる問題を解決してきた。それはそれまでの常識を(くつがえ)す「超常識の発想」を実行することによってである。たとえば、赤字国債の発行で公共事業を増やして景気を回復させるというケインズの理論も、そのうちの一つである。経済学の常識とされてきた彼の理論も、当初は「超常識の発想」……というよりナチスの思想と同じように危険なものと当時アメリカでは考えられていたという。しかし、その発想をルーズベルト大統領は取り上げてニューディール政策を実行し、未曾有(みぞう)の大恐慌を切り抜けたのである。(このような、荒唐無稽(こうとうむけい)の理論と天才的な理論が紙一重(かみひとえ)に見えるということはしばしばあり、これが独創的な政策を実行することを妨げる原因の一つともなる)

 現在の日本の危機を解決するためには、ケインズの理論と同じような「超常識の発想」が要求される。それがこれから私が提案する「八道州・七新都市構想」なのである。ただ、これはケインズの理論のように世界中どこの国でも適用できるというものではなく、現在の日本においてのみ、その危機を解決するのに有効な妙案といえよう。それは東京への過度の一極集中など、日本の国家としての欠陥を逆手にとった“奇策”だからである。しかし、歴史上のほとんどの独創的な発想がそうだったように、この構想も「常識」が好きな人たちの拒絶反応と嘲笑(ちょうしょう)を受けるだろう。しかしこれを実行すれば、IT革命などといういかがわしいものに頼らずに、経済を活性化して不況を脱することも可能になる。また、ムダな公共事業を毎年五兆円も減らすことによって巨額の財政赤字を減らすことができるが、これによって土建会社の倒産を招くこともないし、失業者を生むこともなく、景気に対するマイナス要因にもならない。そして将来は、現在の過度に公共事業に依存した地方経済が、それから脱却した経済へとソフトランディングできるのである。さらに、この事業は六十兆円という巨費を要するが、国はそれに対し実質的に一円の支出をする必要もない。そのメリットだけを享受(きょうじゅ)できるのである。

 いや、それだけではない。これを実行することにより、現在の東京の一極集中が完全に解消し、地方経済を活性化して、地方分権を確立することができる。一方、東京は過密が緩和して、通勤地獄や交通渋滞が解決へ向かい、働く人々の職住接近も実現するのである。そのうえ、現在遅々として進まない行革を徹底して実行し、本格的な規制緩和も可能になる。すなわち、現在の日本の抱える問題の大半を、一気に解決してしまうのである。しかし、べつに魔法や手品を使うわけではない。それがこの「超常識」の発想を実行した結果なのである。

 もっとも、これに対し次のような疑問が提示されるかもしれない。「確かに、理論的にはあなたの言うことは正しいかもしれない。しかし、理論と現実は違う。それほど途方もなく大規模で大胆な政策が現実に実行されるとは思えない」……と。

 はたしてスケールが大きく大胆な発想というのは、それだけで非現実的といえるだろうか。私は、大改革を行おうとする場合、その実現性をはかるキーワードとして「利益と不利益」ということがあげられると思う。仮に、独裁国家なら国民に大きな不利益を強要しても大改革はできるかもしれない。しかし、日本のような民主主義の国家で大改革を行おうとすれば、それは難しい。たとえば、今まで道州制の導入論というものがしばしば提唱されてきた。従来の道州制の理論は、あとで説明するように、非現実的で危険なものである。しかし、それだけではなく、この実行には地方に与える不利益が大きく利益は乏しいということが、その実現をほとんど不可能にしている。

 また、これに対し、首都機能の移転ははるかに実現性の高いものだが、それでもこれに対する全国民の熱意がもう一つ盛り上がらないのは、これによって利益を得られる地域が偏っている、というより日本で一カ所しかないためだろう。理屈では首都機能の移転が日本にとって必要だということがわかっていても、地方の人々は、自分の地方にとって直接利益にならないことには熱意を持てないのである。特に日本の場合、整備新幹線の例をみてもわかるように、ほかの地方に建設したなら自分の地方にも……という意識が強い。そうした中で国家的大事業・大改革を実現するためには、日本全国にあまねく利益が行き渡るような政策を行うことが、その実現性を高めるといえよう。

 その点、私の「八道州・七新都市構想」は、各方面に与える痛みもあるが、利益も巨大である。その利益とは、まず、財政再建を行いながら景気を回復するという、国も財界も地方も、そして国民全体も熱望していることが実現するということである。そして、この計画により全国に建設される七つの新都市は、地方に巨大な利益を与えることになる。この都市建設はそれぞれが平均して八兆円ほどの大事業になるが、都市が完成したあとも多くの雇用を生み出し、地方経済を活性化しつづける。そのうえ、現在東京にしかない機能を移転したり、あるいは現在日本に存在しない機能を持たせたりして、その結果、強力な情報発信機能を得ることもできるのである。まさに地方が(のど)から手が出るほど欲しいものであろう。

 また、この建設事業は、この構想によって生じる不利益を弱める効果も同時に備えることになる。たとえば、道州制の導入により都道府県が廃止されると、それぞれの自治体の役人の再就職の問題が出てくるが、新都市はその雇用の受け皿の役割も果たす。そして、ムダな公共事業をやめるという経済上の不利益は、それによって減少した工事を新都市建設の工事で補うことにより、土建業界においては相殺(そうさい)することができるのである。

 すなわち、この「八道州・七新都市構想」はあまりにもスケールが大きすぎるため一見非現実的に思えるかもしれないが、その結果生じる巨大な効果と、それによって各方面に与えられる巨大なアメからして、きわめて実現性の高いプロジェクトといえよう。確かに、かつてのバブル経済のときなら、いや、バブルのときにかぎらず、今までのどのような時代でも、このような構想は一笑に付されただろう。また実際、様々な経済的・社会的条件からして実現は不可能だったとも思える。しかし、今の時代、すなわち、社会が大変革期にありながらも改革が遅々として進まず、また巨額の財政赤字と不況の谷間の中で、そこから抜け出る手立てが見つからない閉塞(へいそく)状況において、この構想が日本を救う唯一の方法として政治の俎上(そじょう)に載せられる可能性はきわめて濃厚であると思う。

 では、この「八道州・七新都市構想」とは具体的にいったいどういうものなのか、それについてこれから詳しく説明していこう。

単純な道州制の導入論は危険
 現在、日本は政治・経済・社会のすべての分野において大変革期を迎えている。すなわち、政治においては国際的な冷戦構造の崩壊の影響を受けたいわゆる「五五年体制」の終焉(しゅうえん)。経済では、戦後の欧米に追いつき追い越すことを目標にしたキャッチアップ型経済から先進国型経済への転換、および工業社会から知価社会・情報化社会への大きな流れ。そして、社会における少子、高齢化社会の到来である。

 これらの大変化に対応するためには、あらゆる分野における構造改革が必要であり、それなくしては二十一世紀の日本の繁栄はないというのが衆目の一致するところであろう。それは具体的には、政治改革・行政改革・規制緩和・教育改革・地方分権などであるが、たとえば、行革や規制緩和がその実現には多くの困難が伴うものの、進むべき方向性は比較的はっきりしているのに対し、地方分権に関しては、そのビジョンがもう一つよく見えてこない。政府がやろうとしている地方分権も小手先の改革であって、本当に地方が政治的・経済的に自立できるような構造改革というには程遠いものといえよう。

 そうした中で、地方分権の切り札としてしばしば登場するのが道州制の導入論である。これは現在の都道府県を廃止して(もっとも北海道はそのまま残るので、厳密にいえば都府県の廃止だが)全国を八から十二程度のブロック、すなわち道州に分割し、国が権限や財源を各道州や市に大幅に委譲するというものである。こうした構想は、大前研一氏をはじめとする評論家や経済団体などが以前から提唱しているが、平成九年五月には、読売新聞社も現行の都道府県・市町村体制を十二州・三百市体制に再編するという案を発表した。また、民主党も党の公約として道州制の導入をあげている。〔現在では、奇妙なことに、民主党は道州制の導入に対して後ろ向きになり、逆に自民党がその実現を公約として掲げるようになった〕

 確かに、現在の都道府県というのは、行政単位の大きさとして中途半端である。明治維新の際に廃藩置県が行われた当時は、まだ列車も自動車もほとんどない時代だった。したがって、徒歩で移動する社会においては、おのおのの都道府県はかなり広い面積だったのである。しかし現在では、たとえば首都圏においては、埼玉・神奈川・千葉などに暮らしている人たちが、毎日通勤電車で東京の企業に働きにくる。ところが、それらの企業が支払う地方税はすべて東京都に入ってしまう。その結果、東京には豪華施設がやたらと建設されたが、その企業の社員と家族が暮らす埼玉県などは財源が乏しいため、車の通行量は多いのに歩道もない危険な通学路を小学生が毎日利用しているというのが現状である。

 実際、都道府県が現在のように細かく分割されていなければならない必然性は何もない。故伊丹十三(いたみじゅうぞう)監督の『マルタイの女』は、伊丹監督が暴力団関係者に襲撃されたあと、伊丹氏と夫人の宮本信子さんが警察の警護を受けた経験がヒントになってできた映画だという。宮本さんの話では、地方のロケに行くときなど、県境(けんざかい)になるとボディーガードの警官が交替するということである。たとえば、東京から埼玉に入ると、警護の担当は警視庁から埼玉県警に代わり、また群馬県に入ると群馬県警の警官に交替するというように。もっとも、この場合はそれほどの不都合は生じないだろうが、車で逃げる犯人をパトカーが追いかける場合、県境で隣の県のパトカーと交替するというのはばかげている。もはや現在の都道府県の区分は、高度に交通の発達した社会には適応できなくなっているのである。

 もっとも、道州制の導入論は、都道府県の区分が小さすぎるという以前に、現在の極度の中央集権から生じる様々な弊害(へいがい)を除去するために、国の財源や権限を地方へ移して地方分権を確立しようという意図から提唱されたものである。現在、多くの地方公共団体は、その財源の大半を国から与えられる地方交付税交付金と補助金で(まかな)っており、独自の財源はきわめて少ない。そのうえ、行政における権限の多くは中央政府に握られているため、地方の役所は、極端にいえば国の出先機関的機能しかないような所が少なくない。その一方では、こうした状況は、地方公共団体にとっても簡単に国から金が渡されるので、企業を誘致したりして独自の財源を増やそうという努力もしないし、放漫財政にも陥りやすい。このような状況を打破するためには、国の財源や権限を地方に大幅に委譲して地方分権を実現しなければならないが、その受け皿としては現在の都道府県の単位では小さすぎる。そこでそれらを大きなブロック、すなわち道州にまとめようという構想が道州制であった。

 もっとも、行政には市民に密着したサービスというものも必要なわけだが、それは市町村が担当すればいいわけである。しかし、現在の三千を越える市町村において、特に小さな町村では独自の財源でそれらの市民サービスを実行するなどというのはとうてい無理だから、これらを三百程度の市に再編するというのが、多くの道州制の提唱者が共通して提言していることでもある。

 すなわち現在の国、県、市町村、の三段階の行政単位を、国、道州、市の新たな三段階の行政単位に変更しようというのが、一般的な道州制の導入論である。もっとも、現在の都道府県をそのまま残して四段階の行政単位にしようという案もあるが、これは行政の肥大化を招くし、合理的とは思えない。やはり都道府県は廃止すべきであろう。四十七の都道府県が八つの道州になれば、単純に考えても、三十九の知事・副知事・議員などの給与・手当・退職金等が不要になるし、彼らのための施設やその維持費、それに事務経費・選挙経費も不要となる。大きな税金の節約である。

 しかし、これに対し「都道府県がなくなったら、高校野球の鹿児島代表とか高知代表とかはどうなっちゃうの」と素朴な疑問を投げかける人もいると思う。これについては私は、現在の都道府県を行政単位ではなく、地域の名称として残してもいいと思っている。たとえば、東京都千代田区大手町といった場合、大手町の町議会があるわけでも町長がいるわけでもない。それは行政の単位ではなくて、地域の名称にすぎない。同じように、神奈川や埼玉といった名称は残しても差しつかえないのではないだろうか。

 さて、以上述べたように、地方分権を実現する手段として道州制を導入しなければならないという考え自体は、きわめて妥当なものといえよう。では、これを実行することは実際に可能なのだろうか。また、現実に実行できたとしても、それにより本当に地方分権は成功し、その政治的・経済的自立が実現するのだろうか。私は、そのように考えるのは楽観的すぎる、というよりきわめて危険であるとさえ思う。

 まず、この実現は実際問題としてきわめて困難だということを述べなければならない。その理由は、これを実行しようとすれば、当然現在の職を失う都府県庁の職員や地方議員などの猛烈な反対に会うということがいえる(もっとも、道州制の導入が実行されるのは十数年後なので、それまでに退職している人も多い)。したがって、その反対を押し切って実現するためには、彼らの再就職先の確保が必要というほかに、その不利益を上回るほどの大きな利益を地方に与えなければならない。さらに、その抵抗をなんとか排除して道州制導入を実現したとしても、現在の日本の状況では、この制度自体、失敗に終わらざるをえないだろう。というのも、現在のように東京における政治・経済・情報・文化・娯楽の極度の一極集中を温存したまま道州制を導入すれば、地方から東京への人の流れを加速し、地方の過疎化に歯止めがかからなくなる。そして東京と地方の経済的格差をさらに広げてしまい、経済規模の小さな道州の自立は不可能になるからである。

 たとえば大前研一氏は『激論・日本大改造案』の中の田原総一朗氏との対談で、「たとえば四国が道州制から落っこちるくらい駄目になると、失業率が高くなって賃金が安くなる。すると次に工場を作ろうと思っている人は四国にいけばいい人がたくさん雇用できるということになるんです」と述べている。この本は一九九二年の出版で、現在とは状況が異なっているが、それでもこうした考えが相当ズレたものであると考える人は多いだろう。第一に、企業が賃金の安い所に工場を建設しようと思うなら、日本の国内よりはるかに有利な海外を選ぶ。第二に、現在の国内の工場はオートメーション化されていて、建設してもあまり雇用創出に役立たない。第三に、今の地方の若者は工場の労働よりオフィスの座業を好み、工場ができても地方に留まろうとする者は少ない。第四に(これが最も重要なことだが)、現在でも地方には魅力的な企業が少なく、若者は東京などの大都市へ出ていく。もし四国の失業率が高くなって賃金が安くなったりしたら、その段階で四国の人々は故郷を捨て、関東など豊かな州になだれこんでくるだろう。

 そもそも、地方へ工場を誘致するという考え方そのものが時代遅れなのである。では、企業の本社を誘致すればいいのかといえば、これも無理だろう。大企業が単独で大都市から地方へ移転するには、あとで述べるように現在享受(きょうじゅ)している多くのメリットを捨てなければならないからである。

 この問題をわかりやすく説明すると、次のようになる。道州制を導入するにあたっては(仮に道州制を導入しなくても、本格的に地方分権を行えば)、現在国が地方に与えている地方交付税交付金や補助金は大幅に減らされ、特に補助金は将来は廃止される。したがって、各道州は独自の財源を確保しなければならない。そのためには各地方に雇用をつくり出し、さらに税金も払ってくれる優良な企業が数多く存在しなければならないのである。ところが、道州制を導入したからといって、東京や大阪などから地方に大企業や中堅企業が移転してくることはほとんどない。それどころか逆に、少ない財源で運営しなければならない州は、行政サービスの質も落ち、州民の生活レベルも下がって、現在より貧しくなってしまう。その結果、州民は豊かな州の大都市へ流出してしまい、多くの地方は衰退への道を転がり落ちてゆくということである。

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