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          『ある日どこかで』
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 内容
 ハリウッド映画『ある日どこかで』
 日本でのリメイクについて


 ハリウッド映画のラブファンタジーのリメイク。出演は武井(えみ)、役所広司等。監督候補は平山秀幸。

ハリウッド映画『ある日どこかで』
 私が映画企画を考える場合、重視する要素の一つは「今まで誰も作らなかったような映画」ということです。ですから近年はやりのリメイクというのは原則としてやりたくないし、とくに『犬神家の一族』とか『椿三十郎』のような単にオリジナルをなぞったようなリメイクに対しては、いささか軽蔑心を抱かずにはいられません。しかし、そんな私が、例外的にオリジナルにできるかぎり忠実にリメイクしたいと考えている映画が、この『ある日どこかで』です。

 それはなぜなのか。その最大の理由はこの映画がいわゆる「知られざる名画」であるということです。仮にこの映画が、同じラブファンタジーの名作でも、『ゴースト ニューヨークの幻』のように大ヒットして誰もが知っているような作品だったとしたら、映画化したいとは考えなかったでしょう。いや、もしそうなら、おそらくすでに日本でリメイクされていたのではないかと思います。しかし、この映画は素晴らしい作品なのに、ほとんどの人が知らない。近年、名作映画のリバイバル上映にも登場して知名度は上がっているとはいっても、やはり「知る人ぞ知る」という状況は変わりません。私はこのサイトの「映画・Jポップエッセイ」でJポップの「知られざる名歌」を数多く紹介していますが、この「知られざる名画」においては、単にオリジナルを紹介するだけでなく、さらに一歩進んで日本でリメイクして多くの人たちに見てもらいたいと考えているわけです。

 では、この映画の内容について説明したいと思います。この映画の原作者はリチャード・マシスン。スピルバーグの『激突』の原作と脚本を書いている人ですが、この映画の脚本も担当しています。で、この作品はラブファンタジーと書きましたが、厳密にいうとSFかもしれません。タイムトラベル物の場合、SFとファンタジーはどこで分かれるのでしょうか。一応、時間旅行の科学的根拠が示されているのがSF、そうでなくて、わけがわからずタイムスリップしちゃったみたいのはファンタジーということになります。その点、この『ある日どこかで』はタイムスリップの科学的根拠のようなものは一応示されてはいるのですが、時空を超えた恋ということで、やはりムード的にはファンタジーに分類されるものでしょう。とはいっても、原作のほうはロマンティックな雰囲気はあまりなくて、むしろSFっぽい。原作と同じマシスンの脚本なのに、映画のほうがはるかにロマンティックで、美しく優雅な雰囲気に包まれています。

 この原作はあまり売れなかったのですが、この映画のプロデューサーはこの小説に引かれ、映画化を決意します。しかし、映画会社の幹部は内容的にヒットは見込めないとして、製作費は予定の半分に減らされてしまいました。1980年当時とはいっても、製作費はわずかに400万ドル。ちょっとしたスターが出演したら、そのギャラだけでふっとんでしまうような金額です。よくこの製作費で、これだけの映画ができたものだと感心してしまいます。主役を演じた『スーパーマン』のクリストファー・リーブなどは、かなり安い出演料で応じたのでしょう。

 しかし、この映画を製作するにあたっての最大の問題の一つは監督です。この製作費では当然一流の監督は使えません。そこで、プロデューサーが選んだのは『ジョーズ2』を監督したフランス出身のヤノット・シュワルツ(ジュノー・シュウォーク)という監督。はっきりいって三流の監督だし、『ジョーズ2』では成功したかもしれないけど、この優雅なファンタジーには向かないんじゃないの……と私がプロデューサーなら考えたと思います。しかし、この登用は大成功でした。その映像テクニックもさることながら、失礼ながらそのワイルドな風貌(ふうぼう)から想像できないような華麗な映像美。この作品に関しては、「巨匠」の風格さえ漂っています。

 映画はストーリーなどについては、できるだけ知らないで見たほうがいいと常々(つねづね)考えている私なので、この映画のストーリーについては述べません。ただ、この映画の重要な要素である音楽について触れておきたいと思います。というのも、この映画がこれだけの名作になったのは、この映画音楽が大きく寄与しているからです。『第三の男』や『禁じられた遊び』が、その音楽なしには成り立たないように、この映画もその音楽とは不可分になっています。したがって、もし日本でリメイクするなら、やはりこの音楽の使用許可をもらうということが前提条件となるでしょう。この音楽なしには映画の感動も、大きく減じることが避けられないからです。

 この音楽を担当したのはジョン・バリー。007シリーズなどの音楽の作曲をしているアメリカを代表する映画音楽の作曲家です。ここで疑問に感じる人もいると思いますが、なぜわずか製作費400万ドルの映画で、この一流の作曲家に作曲を依頼することができたのでしょうか。この裏には面白いエピソードがあります。この映画のヒロインのジェーン・シーモアは007シリーズのボンドガールの出身で、ジョン・バリーと個人的に親しかったんです。そこで彼に、「お金はあまり出せないけど、私のために作曲を引き受けてくれない」と頼んだら快諾(かいだく)してくれたということです。ジョン・バリーの音楽というと、007シリーズにしろ、『冬のライオン』という史劇の音楽にしろ、男性的で雄渾(ゆうこん)なイメージがあります。でも、この『ある日どこかで』の音楽は、ヘンリー・マンシーニの曲を思わせるような美しい旋律です。彼はこの曲を作曲する前に両親を亡くして大きな悲しみの中にいたといいますが、その両親がインスピレーションを与えてくれたのかもしれません。私は、昔はミュージカルの音楽のほか『ベン・ハー』『アラビアのロレンス』『スター・ウォーズ』『E.T.』などの映画音楽を熱中して聴いていましたが、この『ある日どこかで』のサウンドトラック盤には久々にのめり込んだという感じです。

 ところで、この映画が「知られざる名画」となったのは、公開時に不運が重なったこともあります。まず第一に、試写会での一般での観客の反応はよかったにもかかわらず、評論家が酷評したということです。今ではアメリカでも日本と同様、映画興行における評論家の影響力は少ないということですが、昔は相当大きかったようです。ただ、私の持論である「映画評論家というのは映画を最も見る目のない連中のことである」というのは、アメリカでも当てはまるといえましょう。彼らはこの映画を全く評価しなかっただけでなく、かつてはデビッド・リーン監督の名作である『ドクトル・ジバゴ』や『ライアンの娘』もけなしていたのですから(日本の評論家は『ライアンの娘』には高評価を与えていましたが)。

 さらに当時俳優のストライキが行われていて、この映画の俳優たちも映画のキャンペーンができなかったということがありました。その結果、映画『ある日どこかで』はアメリカでも日本でも封切り早々、上映は打ち切られてしまったのです。まあ、大コケの映画というのは映画史上に無数にあるわけで、ふつうならこの映画も残念な結果でしたということでおしまいなわけですが、この作品は全く別の道をたどることになります。すなわち、のちに再評価され、多くの熱狂的なファンが生まれることになったのです。これは非常に珍しいケースではないでしょうか。たとえば、映画史に埋もれていた映画が評論家などによって発掘され再評価されるということはなくはないでしょうが、この映画はケーブルテレビで放映されたのがきっかけで、一般の視聴者の間で口コミで評判となり、ファンクラブまで形成されたのですから。そしてそのファンクラブは、やがて映画の舞台となったホテルで毎年映画の出演者とスタッフを呼んで、ファンの(つど)いを開くようになりました。その点では、この映画は長い年月を経て(よみがえ)ったといえるでしょう。しかし、一部の映画ファンのみならず、その存在が一般の人にまで知られるようになるためには、まだ不十分です。すなわち、再映画化ということが不可欠だと思うのです。

日本でのリメイクについて
 では、次に、この映画の日本でのリメイクについて具体的構想を述べようと思います。まず、いえることは、再映画化にあたって、この映画はへたな改変をしないほうがいいということです。オリジナルの脚本と演出の完成度が高いため、妙な改変を加えると質が大きく下がり、リメイクの意味がなくなってしまいます。ただ、これをアメリカでリメイクする場合、オリジナルを全く改変しない再映画化などはしないでしょうから、かえって日本での映画化のほうがやりやすいと思います。すなわち、この舞台を日本を移せば、いやでもセリフなどの表現や描写を変えなければならない部分が出てくるわけであり、また、俳優が同じ演技をしても、欧米人と日本人では(おもむき)が異なってきます。したがって、オリジナルをコピーしたようなリメイクでも、結果的に完全なコピーではなくなり、忠実な再映画化が、よりやりやすくなると思うのです。

 次は出演俳優についてですが、主演の『スーパーマン』のクリストファー・リーブが演じたリチャード・コリアー役を誰が演じるかについては未定です。ジェーン・シーモアが演じたエリーズ・マッケナの役は、主人公がその写真を見て一目惚(ひとめぼ)れをするほどの女優ですから、美貌の持ち主であることが必要条件です。二十代半ばの役ですが、イメージとしては、大人びた感じではなく、恋愛を経験していないような初々(ういうい)しさがある。かといって、単にアイドル的な可愛らしさではなく、気品を感じさせ、トップ女優としての風格もなければならない……といったものです。かなり難しい条件といえるでしょう。ただ、私は新進女優の武井(えみ)がいいのではないかと思っています。彼女はまだ若いですが、年齢よりは上に見えますし、この映画化が実現するとすれば、そのときは二十代になっていると思われます。ソフトなジェーン・シーモアよりはきつい感じもしますが、今あげた条件にかなり近い女優といえるのではないでしょうか。

                
                        ジェーン・シーモアと武井咲

 かつて『サウンド・オブ・ミュージック』の大佐の役をやったクリストファー・プラマーが演じたW・F・ロビンソンの役は、役所広司がいいのではないかと思います。役にふさわしいだけでなく、演技力、知名度など総合的にみて、なかなかこれ以上のキャスティングはないでしょう。

 監督の候補としては平山秀幸を考えています。私は現代の日本の監督のなかで誰が好きかといえば、これといって名前をあげるような監督はいないのですが、演出のスタイルとしては、日活ロマンポルノの出身の周防(すお)正行、滝田洋二郎、金子修介といった職人肌で正攻法のうまい演出をする監督が好きです。平山氏も出身は違うものの、やはり似たようなタイプではないかと思います。私が見て印象的だったのは『ターン』という映画。主演の牧瀬里穂が、同じ日本でありながら人っ子一人いない別次元の世界に入り込んでしまうという、ちょっと変わったSF、あるいはファンタジーです。正攻法であると同時に、デリケートな感性が表現されている演出だと思いました。そして、そうした要素がこの映画の演出に求められているものに一致すると思います。

 最後に、この映画の音楽について述べておきましょう。先程指摘したように、この映画には是非ともオリジナルのジョン・バリー作曲の音楽を付けたいと考えています。この映画が「知られざる名画」となってしまったため、この音楽も「知られざる名曲」となっています。したがって、この映画のキャンペーンを行う場合も、この音楽とセットで宣伝したほうが効果的だと思うのです。テレビでは曲の一部分しか流せないとしても、ラジオなどでは全曲を流すこともできるでしょう。昔は映画音楽が映画がヒットする要素の一つとなることが多かったのですが、今はあまりありません。しかし、この映画は、その可能性がある数少ないケースだと思います。実験的宣伝方法としても、試してみる価値があるといえるのではないでしょうか。


 上の写真は、『ある日どこかで』の再映画化実現に対する理解を深めてもらうために掲載しているものです。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

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