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            日本人のレベルとリーダーについて
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(文中敬称略・2010年7月にブログに発表)

 よく「明治時代の日本人は偉かったが、第二次世界大戦のときはレベルが低下した」とか、「戦後、高度成長したときの日本人は優秀だったが、今の日本人はだめだ」とかいわれる。しかし、本当に一国の国民がその時代、時代によってレベルが上がったり下がったりするものなのだろうか。私はそうは思わない。結論を先にいえばこうである。「ある国の国民が時代によって優秀になったり劣化するなどということはない。変わるのはリーダーの質である」

 たとえば、A社とB社の二つの会社があったとする。A社は会社の業績が大変よいが、B社は業績不振で赤字続きである。この場合、その原因は、A社の社員は優秀だが、B社の社員は劣っているからだと考えるだろうか。いや、そんなことはない。A社の社長は優秀だが、B社の社長は能力が劣るからと考えるのが普通だろう。実際、業績不振の会社が経営者が交代したとたんに売上げが飛躍的に伸び、いわゆるV字回復を見せるというのはよくあることである。接客業の場合など、社長が交代しただけで社員の接客態度が全く変わるということもある。野球のチームなどでも、監督が交代したとたんに、万年Bクラスのチームが優勝したりする。それでもスポーツの場合は、チームによる選手の能力の差というものは歴然としてあるが、一国の国民のレベルの平均値というものは、いつの時代も同じようなものである。変わるのは国家のリーダーの質なのである。

 では、なぜその時代、時代によって優れたリーダーが現れたり、ボンクラのリーダーが続いたりするのだろうか。そのときたまたまその国にそういう人材が生まれたり、あるいは偶然人材が枯渇(こかつ)したりするためだろうか。いや、そんなことはない。どの時代にも、必ず傑出した能力を持った優れたリーダーとなるべき人物というのは存在する。ただ、そのような人物が実際にリーダーとなるようなシステムが存在するか(いな)かということなのである。たとえば戦国時代や明治維新の頃には優れた国家指導者となった逸材(いつざい)が次々と現れた。そして、そのような傑出した人物がリーダーとなる機能を果たしたのが戦争である。

 戦争というのは、文字通り命がけで、そのリーダーのすべての能力を出し尽くして全身全霊で戦うものである。勝利にはもちろん運も作用するが、基本的には完全な実力勝負。桶狭間(おけはざま)の戦いで勝利した織田信長のように、能力があれば味方の何倍もの兵力のある敵と戦って勝利することも珍しくない。これは日本にかぎらず、外国でもアレキサンダー大王、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)、諸葛孔明(しょかつこうめい)など、数多くの例がある。

 では、武将としての能力と、政治的能力とは常に一致するのだろうか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が国家指導者としても武将としても優れていたように、この二つの能力は一致する場合が多いが、必ずしもイコールではない。上杉謙信は戦争の天才で、その戦術においては、この三人に勝っていたという。しかし、「天下取りの戦略」という意味で政治的センスでは劣っていたため、天下人(てんかびと)にはなれなかった。また、古代ローマ帝国において、カエサルは政治家としても武将としても天才だったが、彼を()いだアウグストゥスは政治的には傑出した指導者だったが、病弱であり名将とはいえなかった。しかし、彼の部下で親友でもあったアグリッパという将軍は有能な武将であり、敵のアントニウスと戦って勝利し、アウグストゥスはローマ帝国の初代皇帝となったのである。有能はリーダーは、たとえ本人が軍を指揮する能力に欠けていても、優れた軍人を見いだして使いこなし、結局勝利することもできる。また、その説得力や策謀により多くの人間を味方に付けたりして、不利な戦争も最終的には勝利へともっていくことができるのである(たとえば、関ヶ原の戦いにおける徳川家康のように)。

 しかし、戦争というのは、もちろん国民にとって不幸なことだし、平和な環境で有能な人間がリーダーになれればそれに越したことはない。しかし日本というのは、平和時に傑出した人間がリーダーとなるのがきわめて難しい国のようである。スポーツ界のように必然的に「実力主義」とならざるを得ない世界は別として、それ以外の分野では「実力主義」を嫌い、リーダーとしては無能でも家柄のよい人や学歴の高い人間、あるいは調整能力のある人物がリーダーとなりやすい。明治維新の内戦で勝利した倒幕派は大久保利通などの傑出したリーダーを数多く生んだ。しかし、国内での平和が続くと、実力より学歴が重視され、昭和の初期には陸軍士官学校出身などの、超エリートだが無能な指導者たちがリーダーとなってしまった。そして、日本を無謀な戦争と、その結果としての敗戦へと導いたのである。

 第二次世界大戦の終結により政治・社会の古いシステムが破壊されると、明治維新以来の実力主義の時代が到来し、政界にも財界にも傑出したリーダーが次々と生まれた。しかし、時が立つにつれ、やはり実力主義はすたれ、政界は家柄、官界は学歴、財界はその両方が重視されるようになった。見回せば、政界も官界も、財界も、マスコミ界も、そして経済学などの学界も、リーダーは三流・四流の人間ばかりである(しかし、財界は実力主義の側面もあるため、一部だが一流の人間もいる)。

 象徴的なのは前首相の鳩山由紀夫。家柄も学歴も最高だが、政治家としては無能だった。彼を継いだ菅直人は家柄や学歴で首相になったわけではないが、能力的には会社でいえば「課長クラス」だろう。民主主義というのは、一見、傑出したリーダーを選ぶのに優れたシステムのように思えるが、じつはそうともいえない。たとえば、もし織田信長が現代に現れて新党を結成したとしたら、選挙で勝利することができるだろうか。むしろ「あんな傲慢(ごうまん)で型破りで危険な人間が作った政党に投票するわけにはいかない」と多くの国民は考えるのではないだろうか。そして、大衆が喜びそうだけど実現不可能、あるいは日本を破滅へと導く政策を並べる「詐欺師(さぎし)」に投票するのではないだろうか。

 仮に詐欺師と天才が戦争をしたなら、まちがいなく天才のほうが勝つ。しかし、民主主義国家の選挙戦ではそうともいえない。というのも、有能な詐欺師というのは、民主主義の選挙において国民を(だま)して票を獲得することに()けている人間だからである。問題は、小沢一郎のような「詐欺師」と織田信長のような「天才」が紙一重(かみひとえ)にも見えるところだろう。どちらも国民がびっくりするような常識破りの政策を提言したりするが、当然ながら前者は日本を破滅に導き、後者は日本を救う。しかし、「天才」のほうが「常識破り」の程度がはなはだしいため国民には受け入れられず、また、「天才」は多くの国民が反発するような改革も主張するのに対し、「詐欺師」はバラマキ政策のような甘言(かんげん)を並べる。その結果、国民は「詐欺師」のほうを選んでしまう確率が少なくないのである。かつてドイツの国民がヒットラーという「天才的詐欺師」を選んだように。

 「小さな嘘より大きい嘘のほうが人を騙しやすい」というが、小沢一郎が「稀代(きたい)の詐欺師」といえるのは、「民主党のマニフェスト」という巨大な嘘により何千万もの国民を騙すことに成功したからである。見回せば、日本の各界のリーダーは、不況下で緊縮財政と増税を主張するボンクラや、バラマキを正当化する詐欺師ばかりなり……か。

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