SABOの八つの世界    

    私の選んだ世界映画史上ベストテン
                 (その2)

                      
風水の真実ザ・有名人占星術映画・Jポップエッセイ私の映画企画私のマニフェスト八道州・七新都市構想ここがおかしい 日本人類の歴史を変える新哲学

HOME(トップページ)

メッセージ

私のプロフィール

メール・コピー等について

サイトマップ

SABOの東京名所写真

  「映画・Jポップエッセイ」に戻る

(1位は2作品)
1.『サウンド・オブ・ミュージック』(ロバート・ワイズ監督)
1.『オリバー!』(キャロル・リード監督)
3.『ウエストサイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス共同監督)
4.『生きる』(黒澤明監督)
5.『七人の侍』(黒澤明監督)

6.『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリ監督)
7.『アラビアのロレンス』(デビッド・リーン監督)
8.『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督)
9.『羅生門』(黒澤明監督)
10.『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)
(参考 11.『タワーリング・インフェルノ』 12.『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 13.『波止場』)

 1位から5位は、『私の選んだ世界映画史上ベストテン(その1)』で解説しています。


6. 『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリ監督)

 シェークスピアの『ロミオとジュリエット』が彼の四大悲劇に入っていないのは意外と思う人もいるでしょう。これだけ有名な作品なんだから、『リア王』『ハムレット』『マクベス』『オセロ』にこの作品を加えて五大悲劇にしてもいいと考える人もいるかもしれません。しかし、原作を読むと、『リア王』は面白いけど『ロミオとジュリエット』はあまり面白くないんです。書かれたのが四大悲劇よりかなり前で、ちょっと力量不足かなという感じもします。しかし、これをフランコ・ゼフィレッリ監督が映画化したこの作品は凄い。本当に原作を越えている。

 フランコ・ゼフィレッリという人はイタリア人で、もともとシェークスピアなどの演劇の演出家です。日本でいえば蜷川(にながわ)幸雄(ゆきお)みたいな、ちょっと天才的な演出家らしい。というより、かつては蜷川氏のほうが「日本のゼフィレッリ」と言われてたそうです。そして彼が映画監督に進出して、三本目の作品がこの『ロミオとジュリエット』です。舞台の演出家から映画監督になる例というのは、『波止場』『エデンの東』のエリア・カザンをはじめけっこう多いのですが、特に初期の作品というのは、妙に演劇的すぎたり、逆に映像に()ってひとりよがりの作品になりがちです。しかし、この『ロミオとジュリエット』はそんなところは全くない。ゼフィレッリのほかの作品はともかく、この映画の演出はまさに天才的です。やはり『ロミオとジュリエット』が原作の『ウエストサイド物語』、それに黒澤明監督の『羅生門』のように、効果的な短いカットを積み重ねてシーンを盛り上げる。原作ではちょっと意味不明な長いセリフも、「えっ、こんな解釈をするの」みたいな驚くような描写。ロミオが剣で闘う場面も、迫力充分です。

 これはちょっと余談になりますが、ゼフィレッリ監督というのはゲイであることをカミングアウトしているそうです。芸術家や作家に同性愛者は多いですし、海外の有名デザイナーなど大半はゲイですが、有名な映画監督の中でも少なくありません。旧ソ連のエイゼンシュテイン、イタリアのビスコンティやパゾリーニ、アメリカのジョージ・キューカーやジョセフ・L・マンキウィッツ、日本の木下恵介など。『ウエストサイド物語』の一方の監督のロビンスもそうだったといいます。ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』にはベッドシーンが出てくるのですが、のちに布施明と結婚するジュリエット役のオリビア・ハッセーのヌードはほんの一瞬、何コマしか出ないのに対し、ロミオの全裸はたっぷりと見せるのはそのせいかな、なんて勘繰(かんぐ)っちゃいます。

 このベッドシーンは映画の公開当時ずいぶん話題になりましたが、この描写はかなり問題があると思うんです。別にシェークスピア劇だってベッドシーンを出してもかまわないと思いますが、その場合、どの程度の描写をするかということには細心の注意を払わなければなりません。ほかのシーンとのバランスが崩れると、へたをするとドラマをぶちこわしてしまいます。その点、やはりこの映画のベッドシーンはやりすぎだったのではないかと思います。もしこのシーンで二人のヌードなど出さずに控えめな描写をしていたなら、この場面はほかのシーンと見事に融合し、映画は完璧なものとなっていたでしょう。この場面の描写だけが、この映画の欠点に思えてならないのです。本当に()しいと思います。


7. 『アラビアのロレンス』(デビッド・リーン監督)

 スピルバーグは少年時代に『アラビアのロレンス』を見て映画監督になることを決心したといいますが、この映画の監督のデビッド・リーンというのは、私が一番好きな映画監督です。映画史上に傑出した映画監督はたくさんいますが、最高の天才監督は日本の黒澤明とイギリスのデビッド・リーンであるというのが私の評価です。私は学生のとき、デビッド・リーン監督の作品を研究した論文を原稿用紙で二、三十枚書いたことがあります。原稿は捨ててしまいましたが、今残っていればデビッド・リーン論を書くのに参考になったのにと少し後悔しています。

 しかし、一番好きな監督の最高傑作なら、ベストテンの7位なんかじゃなくてベストスリーに入れてもいいのではないかと思われるかもしれません。ただ、このベストテンにあげた作品というのは、みな大変面白い映画なのですが、はっきり言って『アラビアのロレンス』を最初に見たときは、凄い映画だけど、あまり面白いとは思わなかったのです。その大きな原因として、この映画が最初に公開されたとき、大幅にカットされたということがあります。現在はDVDなどは完全版が販売されているので、皆さんはほぼオリジナルと同じものを鑑賞できますが、当時のカットされた版では主人公に感情移入があまりできず、映画を素直に楽しめなかったというのが実情です。このオリジナル版とカット版の違いについては、このサイトでデビッド・リーン研究の一環として発表しようと考えています。もっとも、それならオリジナル版の評価はもっと高くなってもいいわけですが、やはり最初に映画を見たときの印象というのはいつまでも残っているわけです。もし私がこの映画を高校生の時に最初に見た時、オリジナル版だったらどう感じたのか。ずっとこの映画に感情移入できたことは確かでしょうが、はるかに面白いという感想を持ったのか、それについてはわからないというしかありません。ただ、この映画ベストテンは、七位までは質的にあまり差がなく、どの作品を一位にしてもおかしくないと思ってます。まあ、私の好みで()えて順位を付けたというところでしょうか。

 さて、この映画の内容ですが、第一次世界大戦中にアラビアの戦地で活躍したT・E・ロレンスという実在のイギリス人の伝記映画です。しかし、いわゆる伝記映画というイメージとはだいぶ違う。どう違うかというのを説明すると大変長い文章になってしまうので、それについてはいずれ独立したエッセイの中で述べたいと思います。ただ一ついえることは、演出が映画表現の極致ともいうべき見事なものということです。とにかくこの演出を見て、スピルバーグも私も映画監督になることを決心したぐらいですから(私はまだなっていませんが)。

 あと一つ言いたいのは、今の人はこの映画のオリジナル版を見られるのは幸運なことですが、映画館で見られないのは残念ということです。この映画の演出は観客が映画館の大きなスクリーンで見ることを想定しているので、大型画面の液晶テレビが増えたとはいえ、やはりこの映画の凄さは映画館の大画面でないとわからないというのが本当のところだからです。将来映画館の上映システムがデジタル化されたら、この映画にかぎらず、特にかつての70ミリフィルムで撮影された大作は映画館でリバイバル上映されるかもしれません。もしそうなったら、映画館で鑑賞することをおすすめします。

 ところで、これは余談ですが、デビッド・リーン監督というのは6回も結婚しているんです(ちなみにスウェーデンのベルイマン監督は5回)。同じイギリス出身の監督でも、デブッチョのヒッチコックと違ってハンサムだったからモテたのでしょうが、「英雄(いろ)を好む」の典型でしょうか。俳優の岸恵子さんもリーン監督の恋人だったといわれてますが、そのような女性遍歴の多さが、女性の出てこない『アラビアのロレンス』のような作品ばかりでなく、多くの優れた恋愛映画を生み出す(かて)にもなったのでしょう。


8. 『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督)

 『サウンド・オブ・ミュージック』『七人の侍』『ベン・ハー』というのは、公開当時、一般大衆が夢中になって見た映画です。しかし、そのわりに評論家の評価はあまり高くなかった。『ベン・ハー』もキネマ旬報のベストテンで12位。1位にした評論家は一人もいませんでした。特に昔の評論家には基本的に「大衆蔑視(べっし)」の考えを持っていた人間が多かったのではないかと思います。大衆が喜ぶ映画よりも、難解な「芸術映画」のほうが高尚(こうしょう)で価値が高いという先入観。そして、自分たちはその「芸術映画」が理解できる選ばれた人間たちなのだという自負心、というより見当違い。しかし、本当に価値が高く後世(こうせい)まで残るのは、やはり大衆が面白いと思い感動する映画です。

 『ベン・ハー』というのは、古代ローマ時代のイエス・キリストが処刑されたときを背景に、ベン・ハーというユダヤ人が体験した波瀾万丈(はらんばんじょう)の物語を描いたドラマです。最初は原作の小説がベストセラーになったのですが、これが舞台化されました。本物の馬が引く戦車が登場したりして、原作者がびっくりするような大がかりな舞台だったそうです。そして次にこれが映画化されたわけです。といっても、当時はモノクロのサイレント映画でした。のちのカラーの超大作よりこっちのほうを高く評価する評論家もいるようです。しかし、私が見たかぎりでは、確かに昔のサイレント映画としてはよくできた大作だけど、のちのカラー作品とはとても比較になりません。

 そしてこのサイレントの『ベン・ハー』で助監督を務めたのが、のちのカラー作品を監督するウィリアム・ワイラーでした。この助監督の経験が、『ベン・ハー』の再映画化において大変プラスになったのではないかと思います。ワイラーという監督は、アメリカが生んだ映画監督のなかで、最大の巨匠と評価されているといっていいでしょう。大変折り目正しい重厚な演出をする監督ですが、私から見ると映画によっては、それがちょっと堅苦しい演出にも思えて、素直に楽しめないものもあります。『ファニー・ガール』というバーブラ・ストライサンド主演のミュージカル映画を監督したりしましたが、まじめ臭い感じであまり面白くない。その点、軽妙な脚本を折り目正しく演出した『ローマの休日』なんかは小品だけど楽しめました。ちょっと日本では過大評価されている感じはしますが。

 しかし、この『ベン・ハー』の演出は彼のほかの作品とは少し違う感じです。かつて映画評論家の(おぎ)昌弘が「芸術になろうとして、なれなかった映画」と書いていたので、もうちょっと堅苦しい演出を予想していたのですが、重厚だけど堅苦しくない。当時70ミリフィルムの大作というのは、アップをあまり使うことはなかったと思いますが、アップを多用した、重厚だけど軽快な演出です。そのことがワイラーの映画の中でも、私の最も好きな作品となった要因の一つといえましょう。

 この映画で最も有名なシーンは、戦車競争の場面です。この場面のフィルムだけ博物館に収蔵さているというぐらい凄いシーン。しかし、この場面がこれだけ盛り上がるのはドラマがしっかりしているからです。『七人の侍』の最後の合戦シーンのように、アクションが最高に盛り上がるように徹底して計算されているドラマです。『七人の侍』では当然、侍と農民たちが善、野武士たちが悪でしたが、この映画ではユダヤ人が善、その植民地を支配しているローマ帝国が悪ということになっています(厳密にいうと、ローマ帝国の植民地政策)。確かにドラマとしてはこのように善と悪がはっきりしていないと面白くないわけですが、じつは歴史的事実からみると、かなりおかしな解釈でもあります。これはこの映画の解説ではなく歴史の問題になりますが、私としてはどうしても指摘しておきたいので、最後に少し説明したいと思います。

 植民地支配というと、どうしても植民地からの搾取(さくしゅ)ということがイメージとしてありますが、ローマ帝国は決して搾取などしなかったし、寛大な善政を行っていました。このことは塩野七生(ななみ)さんの『ローマ人の物語』を読むとわかりますが、考えてみれば、植民地で悪政を続けていたら不満を持ったそこの住民たちが次々と反乱を起こし、ローマ帝国があんな長期にわたって存続できたわけがありません。また、ローマ帝国は宗教においても寛容であり、基本的に「信教の自由」を認めていました。ですから、イエス・キリストというのはローマ帝国からみたら犯罪者ではありません。『ベン・ハー』を見ると、まるでローマ帝国がキリストを処刑したかのように思えますが、キリストを死刑にしたのはユダヤ人のほうなのです。というのも、キリストはユダヤ教における「旧約聖書」に加えて「新約聖書」を普及させるというユダヤ教の革命を起こそうとしたからです(これがキリスト教になる)。これはユダヤ教徒たちにとっては絶対に許せない大罪、まさに死に値する罪でした。

 問題は、ユダヤ人がキリストを死刑にするにはローマ帝国から派遣(はけん)された総督のピラトの許可が必要なのですが、ピラトがユダヤ人の「世論」に配慮して処刑を認めてしまったことです。ピラトは「ローマ帝国では信教の自由を認めているので、キリストの死刑を許可するわけにはいかない。国外追放ぐらいで許してやれ」と言えばよかったのすが、彼はある意味気の弱い人間だったので、できなかったのでしょう。しかし、塩野七生さんが指摘しているように、もしキリストが十字架の刑に処せられずに国外追放されるだけですんでしまったなら、キリスト教はその後、世界的な大宗教にはならなかったかもしれません。ただ、そのあとヨーロッパ中に広まったキリスト教は、古代ローマ帝国のように信教の自由は認めず、中世では異端者を殺しまくります。キリスト教の主張する「愛と寛容」は、むしろ古代ローマ帝国でこそ実現していたのです。歴史とは皮肉なものといわざるをえません。


9. 『羅生門』(黒澤明監督)

 シェークスピアの四大悲劇のうち『オセロ』『リア王』『マクベス』が上演されたのが、シェークスピアが四十歳の時からの三年間、そして黒澤明監督の三大傑作といっていい『羅生門(らしょうもん)』『生きる』『七人の侍』が上映されたのが黒澤監督が四十歳からの数年間です。なんだか面白い偶然ですが、一方は演劇、一方は映画の歴史的遺産として、今後何千年のちまで残る作品ではないでしょうか。

 黒澤監督の映画は、これ以前の作品にもデビュー作の『姿三四郎』のような面白いものがあるし、これ以降にも『天国と地獄』『赤ひげ』などの傑作を発表しています。しかし、この三作はちょっと特別。神品(しんぴん)というか、ときには、はたしてこれを人間が創ったのか、というような感想を持つくらいの凄い映画です。

 『羅生門』は芥川龍之介の小説の『(やぶ)の中』が原作です。『羅生門』のエピソードも少し加えたのでタイトルは『羅生門』になりましたが、確かにこの題名のほうが風格はあります。この映画は、一言で言えば、短編小説の天才の芥川と、映画の天才の黒澤の見事なコラボレーション。それを結びつけたのが脚本家の橋本忍さんというわけです。ただ、原作が原作ですから、『生きる』『七人の侍』と違って難解な映画です。観客に頭を使うことを要求します。ミステリー好きの人なら、はまってしまうかもしれません。ただし、答のないパズルのようなものなので、いらいらするかも。

 しかし、そうした難解さを越えて、この映画にはアクション映画を見るような爽快感(そうかいかん)もあります。その理由は、何といっても黒澤監督のものすごい映像テクニック、そして映像美。ちょっと神がかり的です。一時間半ほどの短い映画ですけど、全編が天才的な映像感覚に満ちています。もう「まいった」という感じですね。しかし、この映画は、公開時は評論家にはあまり評価されませんでした。まあ、「例によって例のごとく」ということでしょうか。ベネチア映画祭でグランプリを受賞して日本中が沸き返ったあとでも、双葉(ふたば)十三郎(じゅうざぶろう)のように、主役二人が剣で闘う同じ場面が二度あって退屈だみたいに言っている映画評論家がいましたから。まあ、映画祭の最高賞を受賞しても北野武監督の映画みたいにつまらないものもあるので、批判するのは大いにけっこう。しかし、この批判は全く的外(まとはず)れです。この二度ある闘いの場面は、同じ闘いを別の人間の証言により再現したもの。この二つが全く違う内容というのが面白いところで、黒澤監督の演出力が()え渡る、この映画の見所(みどころ)の一つでもあるわけです。もっとも、「映画オンチの映画評論家」には理解できなかったのでしょう。しかし、昔の「大物映画評論家」というのは、多かれ少なかれ似たようなものです。

 では、この映画は全く欠点のない完璧な映画かというと、そうともいえないんです。たとえば、三船敏郎が演じる多襄丸(たじょうまる)は陽性すぎて、とても女子供を平気で殺すような大悪人には見えないし、京マチ子の演技もちょっとストレートすぎるのではないかと思います。しかし、そうした欠点までもが魅力になってしまう不思議な映画です。


10. 『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)

 ビリ・ワイルダー監督というのは軽妙な喜劇映画を作る名人として有名ですが、この映画はシリアスドラマです。しかし、ある意味とてつもないドラマでもあります。

 冒頭、ウィリアム・ホールデンが演じる主役が屋敷のプールで死んでいる場面から始まります。そして彼が回想形式で、なぜ自分が殺されたのかを語るわけです。こういうとリアルなサスペンスドラマか何かと思うでしょう。でも、違います。まあ、殺された人間が告白する、その内容がある意味ファンタジックで、とてつもない内容ということでは『羅生門』に似ているといえるかもしれません。

 私が選んだベストテン映画のうち七本は洋画ですが、このうち五本はアカデミー作品賞を受賞しています。『ロミオとジュリエット』は作品賞の候補になったものの『オリバー!』が受賞したので獲得できませんでしたが、この『サンセット大通り』の年は『イヴの総て』が 受賞したので、やはり受賞できませんでした。しかし、『イヴの総て』はあまりに演劇的で、やたらとセリフの多いドラマで、私は退屈なため最後まで見られませんでした。それに対し、この『サンセット大通り』というのは非常に面白いドラマです。ビリー・ワイルダーの見事な脚本と演出のテクニックで、ぐいぐいと映画の中に引き込まれていきます。

 面白い映画は内容について何も知らないで見るのがベストだと考えているので、ストーリーについては述べませんが、この映画のとてつもないところは、登場人物とその役柄(やくがら)ということでもいえます。なにしろ、グロリア・スワンソンという元大女優が本当に元大女優の役で出演し、元大監督の役をやるシュトロハイムという俳優は本当に元大監督。そして大スターのバスター・キートンや大監督のセシル・B・デミルは本人の役で出演するというわけです。デミル監督の演技があまりにうまいので、この人は俳優の出身じゃないかと思って調べたら、やはりそうでした。

 でも、こういったファンタジックでシリアス、かつスケールの大きなドラマというのは、ワイルダー監督はこれ以降作ってませんね。コメディの名手ということで名を()せましたが、私から見ると、なんか小さくまとまっちゃったなという感じ。このようなスケールの大きなとてつもないストーリーの映画をもっと作ってほしかった、というのが私の正直な感想です。


 「映画・Jポップエッセイ」に戻る  このページのトップに戻る